ありきたりな言葉たちの行く末。

僕の言葉は誰にたどり着くのか。

ROをやらない訳についで。

言い訳というのは、自己を正当化するための行為だと思う。


でも、誰に強いられるワケでもなく「してしまっている言い訳」は
何を求めて行われているのだろう。


そこには自己の正当性を他者へ押し付けようとする心が
見え隠れしている気がする。。


ここにおける他者とは何か。
僕の中から沸きいずる言葉の泉、
それを見つめている全てだと思う。
それには所謂「自分」も含まれる。


僕は、僕自身を納得させようと
もっともらしい何かを示し、自身を律しようとしている
僕は、泉に映る「自身」からの言葉に、「僕」を律されようとしてる。


泉を見つめる僕は
泉の底からの言葉を正しく判断しなくてはいけない。


はたして、僕はROをホントに「やりたくなるまで休止」できるのだろうか。
ちなみに明後日にはROをやる気であるが
それまでに「やりたくなるか」が僕の心の焦点になるのである。


何か話ずれてるきがするなぁ。
ま、いつものことか。

泉に映る僕は今
何を語りかけてきているのだろう。